永遠のモネ

雑記

「モネの絵の中に入りたい」

 

森山信太郎(仮名)という友人が、突如このように打ち明けてきたのは記憶にあたらしい。

 

「モネの絵のモデルになりたい」ではなく、「モネの絵の中に入りたい」という表現は、なかなか新鮮である。

 

「なぜモネの絵の中に入りたいと思ったのか」

 

こう質問すると、森山は以下のように話した。

 

 

 

僕は時間に追われることに疲れてしまった。

 

狂いもなく、ただ等間隔を刻み続ける時間に。。。

 

楽しい時間はあっという間に過ぎる。

 

逆に、辛い時間は重くのしかかる。

 

僕にはその両者が、同じ間隔で刻まれる時間だと思えないんだ。

 

時間は伸びたり縮んだりしていると思う。こんなことを言って、理解してもらえるだろうか?

 

それは自己中心的だ、と言うかもしれない。

 

確かに自己中心的だ。だって自分にとっては楽しい時間も、ある人にとっては辛い時間かもしれないから。

 

自分の時間は縮んでいるけど、一方で別の誰かの時間は伸びている。

 

この2つの時間が同時に成り立つなんて言ったら、きっと合理的じゃないと思われてしまうだろう。

 

でも少し待ってもらいたい!

 

この世の現象はすべて、自分の脳内で起こっていることに過ぎない。

 

僕にとってお前は、究極、僕の脳内のお前でしかありえないのだ。

 

果たして自分が知覚できない物体や現象は、存在していると言えるのだろうか?

 

太平洋に浮かぶ無人島で、崖から石が海に転げ落ちた、という現象があったとする。

 

果たしてこれは、自分にとって事実なのか?

 

いかなる人類も、その石を観測することは無いだろうし、そもそも関心を示さない。

 

よって新聞、テレビ、SNSなどすべての媒体を介しても、この現象が僕に知らされることはない。

 

何も起こっていないのに等しいのだ。

 

それは事実ではない、、、バタフライ・エフェクトによって明日の天気予報が外れたとしても、石が荒波の中に落ちたことを絶対に知ることはできない!

 

……………………。

 

……………………。

 

そもそも絶対的な物質、絶対的な時間などは存在しない。そんなのファンタジーだ。

 

あるものは知覚だけなんだ。

 

時計が等間隔に動いていようが、誰がどのような時間を感じていようが、知覚できない時間は存在しないも同然なんだ。

 

本来自分の時間は、自分のものでしかあり得ない!

 

 

 

森山はここで一旦息をついた。

 

出だしはごくごく一般的な悩み話かという調子であったが、途中から展開される激論は、なぜか私をひきつけた。

 

そして友人との他愛のない会話をここまで鮮明に覚えていて、ここにしっかり記述できていることに、自分でも驚いている。

 

知性も感性も凡庸な私には、彼の話には圧倒されるだけで、ごくごく一般的な反応を返すことしかできなかった。

 

「なるほど不覚にもその話に引き込まれてしまったよ。でも社会を生きていく上で、自分の時間に干渉されることはある程度仕方ないんじゃないかな? どうだろうか?」

 

すると森山は待っていましたとばかりに目を広げ、大きく息を吸うと、再び口を開いた。

 

 

僕が疲れてしまった原因はまさにそこにあるんだ。

 

人間は社会の中でしか生きていけないから、自分の時間感覚が干渉されるのを避けることはできない。

 

だから確かに『自分の時間は自分の時間として完全に独立できる』というのは、理想のまた理想でしかないだろう。

 

しかし僕は、自分の時間感覚があまりに干渉され過ぎていると思っている。

 

……………………。

 

……………………。

 

時間は正確すぎるんだ。

 

時間を定義するセシウム原子の律動、、、

 

あまりにも無機的すぎる。 およそ人類に共鳴などできない、、、!

 

僕はそんな心もない無機物に、僕の心は強く干渉されているのだ。

 

僕は、僕の家族と親族と、友人と、知人と、いくつかの小さなコミュニティーのなかにいて、そのなかだけで互いに時間を共有するので十分なんだ。

 

確かにこの無機的な時間は、万人が共通して妥協できるものだろう。

 

でもなぜよりにもよって、顔も名前も知らない、関わる必要もない、世界何十億人に共通した時間に屈服しなければならないのか!

 

過剰な迎合だとは思わないか。。。。

 

。。。。

 

。。。。

 

僕は疲れてしまった。

 

いつの日かみた、モネの作品の数々。

 

完全には混ざっていない絵の具の断片の集合が、自分の網膜に直接ぶつかり、自分の脳で化合して初めて解釈される感覚。

 

モネの絵は、物質の拘束感がなく、ただ自分の知覚が生きるんだよ。

 

そしてモネの絵は、無機的な時間からも自由だ。

 

ただ『知覚としての時間』のみが広がっている。

 

即物的なものが、大きく捨象されているんだ。

 

モネの絵の中に入りたい。さらに言えば、モネの絵の中に住みたい。

 

写真では実現しにくいであろう、面としての時間が切り取られている絵画、、、

 

モネの世界で住むことができたのならば、その切り取られたいくらかの時間の中で、永遠に!

 

…………永遠に!

 

……………………。

 

……………………。

 

 

 

不覚にも圧倒された。

 

こんなにもヤバい哲学を持つ友人が身近にいたなんて思ってもみなかった。

 

コイツはすごい、でも裏を返したら相当危険な奴かもしれない。

 

尊敬と恐怖が入り混じった、相当にエネルギーの大きい感情を抱いたのを覚えている。

 

そこでとりあえず私は森山に「モネ山」というあだ名をつけて、以後はこのあだ名でいじり続けたのだが、内心では尊敬していた。

 

森山との付き合いは、その後の私の人格形成に大きく影響したと思う。

 

しかしその森山はある日、「修行にいく」とか言って、突然私の前から姿を消した。現世に愛想をつかしたのだろうか……

 

*****

 

これは何年前のことだったかよく覚えていないが、私はその時からずっと「モネ」が頭の片隅にあった。

 

しかしモネの絵画をみる機会はあまりなかった。別に観に行こうと思っていなかっただけだが。

 

ただこの記事を書く3日前くらいに、午前中が暇だったこともあって、突如思い立って国立西洋美術館に足を運んだ。

 

目的はモネに限らなかったが、記事の性質上モネだけをここにあげようと思う。

 

(雪のアルジャントゥイユ 1875年 国立西洋美術館蔵)

 


(舟遊び 1887年 国立西洋美術館蔵)

 

(波立つプールヴィルの海 1897年 国立西洋美術館蔵)

 

美術には疎い私にも、彼のいう「完全には混ざっていない絵の具の断片の集合が、自分の網膜に直接ぶつかり、自分の脳で化合して初めて解釈される感覚」というのが何となく分かる気がした。

 

とりわけ私が頑張って鑑賞したのは、有名な『睡蓮』だ。

 

『睡蓮』は国立西洋美術館のモネのコーナーで最も大きい額縁に飾られている。

 

(睡蓮 1916年 国立西洋美術館蔵)

 

少し写真の光加減が悪く、実物の感触が表現できていないがお許し頂きたい(当然フラッシュは焚いていない)

 

森山の劇的な感性を味わいたかったが、やはりこの凡庸な私には多くのことは分からなかった。

 

 

確かにここに描かれている睡蓮は、具体的な形を示しておらず、みる者に「拘束感を与えない」気もする。

 

しかしここで私は、ある低俗な想像をしてしまった。

 

「この睡蓮に飛び込んだらどうなるのかw」

 

特に右上の睡蓮の群に飛び込んでみたい。

 

 

ここに飛び込めば、私のすべてを受け入れてくれそうではないか()

 

きっとこの池は深い。

 

水面に描かれている執拗なまでの縦の線が、池の深みにいざなってくれそうだ。

 

飛び込んだら睡蓮はどのように水面を散らばるだろうか。。。。

 

や、もしやこの感情は別に低俗なものではなく、実は森山の感性に近いのか。よく分からなくなってきた。

 

すでに森山はこの絵の中に入って、この睡蓮に飛び込んでいるかもしれない。

 

彼は今、何をしているのだろうか。

 

絵の中に入り込む修行? メリー・ポピンズみたいだw、などと考えていたら三千字を超えてきたのでこの辺でやめておきたい。

 

以上。

 

*****

 

おまけ(しょうもない)

 

マネ「俺の真似をしてみろってんだい!!!」

(ブラン氏の肖像 1879年 国立西洋美術館蔵)

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました