長年の悩みがひとつある。
リュックサックの左右の紐の長さが、どう頑張っても合わないことだ。
例えば本日、リュックサックを背負って歩いていたところ、ふと左肩にかかる負担が右肩のそれよりも大きいことに気が付いた。
左の紐が右より少し短いのである。
その違いはほぼ誤差。
だがこの微妙なアンバランスは、忘れようとすればするほど私の頭の中に居座ろうとし、次第に大きな不快に成長していった。
そこで私は右の紐を少し短くするために、右手をリュックサックの傍らにまわし、注意深く紐を引っ張った。
これで忌わしいアンバランスは解決するはずだ!
……しばしば現実は私たちに、容赦ない厳しさを突きつける。
調整が行き過ぎ、かえって右の紐が左より短くなってしまったのだ。
畜生!
心の中で罵倒したかと思うと、私は手を左の紐に伸ばした。そして左の紐を短く調節した。
しかし今度は、左の紐が右よりも短くなってしまった…
仕方がない…私は右の紐に手を伸ばし、右の紐を短く調節する。
右が左より短くなった。現実は厳しい。
ぐぬぬぬぬ…再び左の紐に手を伸ばして短くしたが、左が右より短くなる。
右、左、右、左、……
私はリュックサックを中心に振動し始めた。
まるで物理学の教科書に出てくるバネの先に付いた重りのように。二つの正電荷の垂直二等分線上に置かれた負電荷のように。
一度始まった振動は永遠に止まらない。
私はこの森羅万象を司る物理学に、完全に支配された。
止まることのない振動。まさに地獄のような体験だった!
※※※※※
その日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のように真っ白で、その真ん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れて居ります。
極楽は丁度朝なのでございましょう。
やがてお釈迦様はその池のふちに御佇みになって、水の面を蔽っている蓮の葉の間から、ふと下の様子を御覧になりました。
この極楽の蓮の下は、丁度東京都に当たっているので、水晶のような水を透き徹して、隅田川や林立するビル群が、丁度のぞきメガネを見るように、はっきりと見えるのでございます。
するとその地獄の底に、Dermasugitaと云う男が一人、他の都民と一緒にうごめいている姿が、御目に止まりました。
このDermasugitaと云う男は、リュックサックを中心に単振動をしている、物理学の奴隷でございますが、それでもたった一つ、善い事を致したおぼえがございます。
と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通ると、小さな蜘蛛が一匹、道端を這っていくのが見えました。
そこでDermasugitaは早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命あるものに違いない。プログラミングを教えこめば、より強靭で美しい糸を紡げるようになるに違いない。その命をむやみに取ると云う事は、いくら何でも可哀想だ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛にProgateと云うプログラミング学習サイトを教えてやったからでございます。
お釈迦様は東京の容子を御覧になりながら、このDermasugitaには蜘蛛にプログラミングを教えたことがあるのを御思い出しになりました。
そうしてそれだけの善い事をした報いには、出来るなら、この男を単振動の地獄から救い出してやろうとお考えになりました。
幸い、側を見ると、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、必死にプログラムを書いて、強靭で美しい糸を設計して居ります。
お釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある東京都へ、まっすぐにそれを御下ろしなさいました。
※※※※※
どうしてもリュックサックの紐は揃わず、振動も止まらない。
このストレスは地獄並みである。
何とかしてこの状況を打開できないだろうか。
私は必死にその答えを探していた。
何気なく頭を上げた。
東京の汚い空を眺めると、その排ガスにまみれた暗の中を、遠い遠い天上から、強靭で美しい蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細くひかりながら、するすると自分の上へ垂れたきたではないか!
瞬時に私は完璧な解決を演繹した。
リュックサックを中心とした振動の根源は重力である。
とすれば重力を取り除けば、この問題は綺麗に解決する。
ではどうやって重力を取り除く?
宇宙空間。
宇宙空間に行けば良いのである。
目の前には都合よく、強靭で美しい蜘蛛の糸が垂れている。
かつて私がプログラミングを教えこんだ蜘蛛が紡いだ完璧な糸……
こう思ったら私は、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命上へ上へとたぐりのぼり始めた。
紐の調節をしながらのぼり続けるのは骨の折れることだったが、無重力空間への希望が私を上へ上へ掻き立てた。
ふと下をみると、私と同じようにリュックサックを中心に振動している人間が沢山見えた。
この東京は地獄だったのだ。
逃げたい、一刻も早くこの地獄から逃げたい。
そう思うと糸をたぐる我が手にはますます力がみなぎり、お釈迦様がいらっしゃる無限遠に向けて、大気圏、対流圏、成層圏、中間圏、熱圏と、ひたすらのぼっていった。
無我夢中でのぼった。
エベレスト、ジェット機、オーロラ、スペースシャトル、地球の空に浮遊する全ての構造物が、私に声援を送っていた……
ふと我に返ったとき、私はすでに熱圏を超越し、外気圏に突入していた。
下を見ると美しい球体。
「地球は青かった」
ところがじっと目をこらすと、蜘蛛の糸の遥か下の方には、数限りもない東京都民が、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではないか!
いくら強靭に設計された糸とはいえ、どうしてあれだけの人数の重みに耐えることができようか。
もし万一途中で切れたとしたら、折角ここまでのぼって来たこの肝腎な自分までも、元の東京地獄へ逆落としに落ちてしまわなければならない。
そんなことがあったら、大変だ。
そこで私は大きな声を出して、「こら、東京都民ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」とわめいた。
その途端のことである。
今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に私のぶら下がっている所から、ぷつりと音を立てて切れた。
しかしながら、何という幸運。
私はすでに重力を克服していたのだ!
私は地球と十分に離れており、重力の影響はほとんど受けなかった。
そこで私は落ち着いて切れた糸のもう一端をつかみ、悠々と無限遠の極楽浄土を目指したのであった。
まだ重力圏内にいた数限りない東京都民のことなど、私にはどうでもよかった。
以上。
Thanks to 芥川龍之介 『蜘蛛の糸』
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