僕は割合、論文を読むのが好きだ。そして読んだ論文をもとに、日常の意思判断を決定することも少なくない。
とはいえ、日常のあらゆる意思決定を論文で決めるなど、できるはずもない。日常生活は不確かの連続であり、論文をはじめとしたエビデンス(科学的な根拠)に基づいて決められることなど、ほんの一部でしかない。
これは医療の現場でも同じである。
今まで僕は、「医療行為の大半は、エビデンス・ベースドで決定されている」と考えていた。しかし実際のところ、そんなことは全くありえないと実感している。
臨床実習に出てみて思ったことだが、教科書・ガイドライン・論文にぴったり当てはまる患者はほとんどいない。所詮文献なんてものは、治療を決定するうえで、参考程度にしかならない。さらにいえば、もし教科書通りの患者が来たとしても、教科書に書かれている治療が、その人に効くという保証はない。
既存のエビデンスが目の前の患者にどの程度利用できるか、というのは全く別の議論なのでここでは割愛する。しかし少なくとも、エビデンスは絶対的な指標になり得ず、最終的な判断は間違いなく担当の医師自身に委ねられるのである。
そんなわけで、私も論文を読むときは、以上のことに十分気をつけているつもりだ。読んでいる論文を鵜呑みにせず、実験プロセスや使用している統計学的手法が適切なのか、できる限り検証したうえで、最終的には自分の意思で真偽を判定している。
ただ実際のところ、この検証過程は相当しんどい。自分がやったことのない実験手法や、一回も見たことがない統計手法が出てくると、それを解決するのに相当な時間がかかる。「学習コスト」という精神面での消耗も馬鹿にできない。
なのでNature誌やScience誌といった権威ある雑誌から出た論文の場合、そういった過程を適当にしてしまうこともある。理想的には、こういうことはダメだと言われる一方で、ある程度は仕方のないことだと思っている。
しばしば僕は、「論文の妥当性を判断してくれる全知全能の存在がいたら、こんな苦労をしなくても良いのに……」と願う。しかしそんなことは絵空事に過ぎない。
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そもそもなぜ、僕はこんな無益な文章を書いているのか。というのは、先ほどから読んでいる論文の検証がめんどくさくなっているからだ。
右の画面で論文を読んでいるフリをして、実はブログを書いているの図
現在家には僕一人しかいない。
なので、「君は何を言いたいのだね?」とか「お前は自分の言っていることが正しいと思っているのか?」とか「カツ丼食うか?」などと、論文と存分に語り合うことができる。
はたから見れば変人かもしれないが、僕にとっては自然な行動だ。
しかし今日はいつもと違って、パソコン側から反応が返ってくるような気もする。いつもは無機的に沈黙をつらぬいているパソコン越しの論文が、何か自分を誘っているような感覚を覚えた。
突然眠気を覚え、意識を失った。
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「ようこそ、エビデンスの国へ」
気づくと僕は、全然違う国にいるようだ。目の前の老人が、僕に何かを言っている。
「私はエビデンスの国の王。君はさっきまで見ていたパソコンの画面に、吸い込まれたのだ」
鏡の国のアリス的展開。現代版では鏡でなく、パソコンの世界に迷入するとは驚いた話である。
しかし「エビデンスの国」というのがピンとこない。どういうことなのか、と王に問うてみた。
「この国で閲覧可能な文献(エビデンス)は、全知全能の私が責任をもって承認している。よって国民は、文献の真偽を判定する必要はない。心置きなく読みたまえ」
なるほど素晴らしい国に来た。まさに僕にとっての桃源郷だ。
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その日から僕の生活は素晴らしいものになった。
論文はアブストラクトだけ読めばよい。なぜなら本文は国が責任を持って検証してくれているからだ。
来る日も来る日も僕は論文を読み続け、生活を改善していった。
食事内容・運動のメニュー・学習方法などなど、気になることを毎日調べ続け、すごい勢いで日常に取り入れていった。
なぜこの生活が素晴らしいか?
それは「決断に悩む必要」が極めて少ないからだ。
決断は我々の精神を消耗する。幸せな生活を送るためには、決断は少ない方が良い。
でもこの国なら、ほとんど決断が要らない。だって調べたら適切な論文がヒットするのだから。
こうして僕は、ほとんどの行動・思考を最適化することができた。
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ふと周囲を見渡すと、若干の違和感を覚えた。この国の人々は、ほぼ全員同じような思想を持ち、同じような言い回しをし、同じように動き、同じような食事を食べる。良く考えたらこれは気持ち悪いことなのかもしれない。
しかし僕はというと、今はとても幸せである。今の最適化された日常は、完全にストレスフリーだ。全く不満がない。
周りの人が同じような行動を取るのも、最適化の結果と考えれば自然なことだ。違和感はあるが、些細な心配にすぎないだろう。
そもそも人生というものは、自分が良いと思えば勝ちなのだ。
周りが何と言おうが、自分の感性が大事なのだ。
——おい、起きろ!
家族だろうか、誰かが僕に声をかけたようだ。果たして私は起きるべきなのだろうか。
論文を調べてみよう。うむ、起きない方が良いな。エビデンスがそう保証している。
そもそもなぜ、「不確かさ」だらけの世界に戻らなければならないのだろう。
——先生、急変です!
なにが急変だ。
僕は今が一番幸せなんだ。
だって僕の行動のすべては、エビデンスが決めてくれるんだから。
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